【第3回:前編】健康寿命をのばして生涯現役!ベテラン理学療法士に聞く、キャリアと健康管理法~障がいのある子どもとご家族を支援する松野俊次さん~

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リガクラボの連載「健康寿命をのばして生涯現役!ベテラン理学療法士に聞く、キャリアと健康管理法」。長きにわたりお仕事をされていて、現在も生涯現役を目指して活躍されているベテラン理学療法士の方々に、前編では現在のお仕事(セカンドキャリア)について、後編では日々実践している健康管理法についてお話を伺っていきます。

第3回はボランティア活動で障がいのある子どもと出会ったことから理学療法士を志し、現在も子どもとご家族の地域での暮らしを支え続ける松野俊次さんにご登場いただきます。

PROFILE

松野 俊次さん(まつの としつぐ)

松野 俊次さん(まつの としつぐ

1954年愛知県生まれ。早稲田大学入学と同時に東京YMCAのボランティア活動を開始。そこでの障がいのある子どもとの出会いから大学卒業後に理学療法士の道に。子ども達への支援を生涯の仕事と決め、愛知県立第二青い鳥学園・豊田市こども発達センター・岡崎市こども発達センターで理学療法士として39年間活動した後、現職の特定非営利活動法人 発達を支援する会じゃんぐるじむ理事長に就任。じゃんぐるじむが運営するこども発達センターじゃんぽっぷにて、相談支援専門員として障がいのある子どもとそのご家族への支援に尽力。

松野さんの現在のお仕事(セカンドキャリア)

松野さんは、肢体不自由児施設である愛知県立第二青い鳥学園に勤務された後、豊田市こども発達センターの企画に携わり、現在はこども発達サポートセンターじゃんぽっぷにて勤務されていらっしゃいます。現在の主な活動について教えてください。

松野さん:理事長を務める特定非営利活動法人 発達を支援する会じゃんぐるじむにて、こども発達サポートセンターじゃんぽっぷを運営しています。

じゃんぽっぷでは、未就学児とその養育者を対象とする児童発達支援と小学校〜高校の児童生徒を対象とする放課後等デイサービス、発達の気になる子・障がいのある子と関わる家族や地域の方々を対象とする地域支援をおこなっています。私は相談支援専門員として主に相談事業を担当しています。

相談支援専門員とは、どのような職務内容なのでしょうか?

松野さん:相談支援専門員と聞いてもピンと来ない方もいらっしゃるかもしれませんが、介護保険のケアマネジャーのような仕事、と言うとわかりやすいかもしれません。ケアマネジャーが主に高齢者を対象としているのに対し、相談支援専門員は障がいのある子ども・障がいのある方を対象としています。

具体的には、障害福祉サービスを適切に利用していただくため、ご本人の生活に対する意向や悩みの相談に応じたサービス等利用計画案を作成します。案を元に、障害福祉サービス事業所等と調整し、サービス等利用計画を作成した後は、障害福祉サービスが適切に利用できているか等の確認と計画の見直しもおこないます。

障がいのある子どもの支援は、そのご家族のサポートを含め、多様な知見が求められると思います。利用者からはどのような依頼・相談が寄せられることが多いですか?

こども発達サポートセンターじゃんぽっぷで、相談支援専門員として地域支援をする松野さん

松野さん:依頼・相談で一番多いのは、障害福祉サービスを利用するための利用計画の作成です。障がいのある子どもを対象とする障害福祉サービスには、じゃんぽっぷでも運営している児童発達支援、放課後等デイサービス、保育所等訪問支援があり、さらに、重症心身障がい児など重い障がいのある子どもには、家庭にヘルパーを派遣する居宅介護や一時的に子どもを預かる日中一時支援などがあります。これらを組み合わせながら、障がいのある子の発達を促し、地域でのご家族の生活を支援できるようにサービス等利用計画を作成していきます。

各ご家庭のプライバシーにも深く踏み込むことが多いため、時に夫婦の問題や嫁姑問題など、ご家族の問題に関わることがあります。

理学療法士としての専門性と今までの経験を活かし、生活をマネジメントする観点から、地域で暮らす障がいのある子どもとご家族への支援をおこなっています。

個々のケースに応じたきめ細かいサポートが必要となるお仕事ですね。相談支援専門員として携わった中で、印象深いエピソードなどはありますか?

松野さん:児童発達支援センターに通っている、知的障害を伴う自閉スペクトラム症の年中児のサービス等利用計画を作成した時のことです。

その子は一人っ子で父親のご両親と同居していました。主に母親が一生懸命育てていたのですが、ある日突然母親が亡くなり、祖母が子育てをするようになりました。しかし、その祖母も突然の病魔で他界し、父親とまだ働いている祖父だけが残されました。

その子が児童発達支援センターに通っている間はよかったのですが、小学校に上がると、授業が終わってから父親か祖父が家に帰ってくるまで誰がその子を見るかが問題になりました。

様々な議論検討を重ね、最終的に毎日授業後は放課後等デイサービスを利用し、その後は日中一時支援を利用して、そこでその子に晩御飯を食べてもらい、お風呂に入れてもらってから家に送り届けてもらうようにしました。その子だけでなくご家族の地域での生活をなんとか守れたと思いました。

ご家庭にしっかりと寄り添うことで、必要な支援に繋げることができたのですね。松野さんはなぜ、障がいのある子どもへの支援をしたいと思われたのでしょうか。

松野さん:もともと子どもが好きだったこともあり、大学入学と同時に YMCAの学生ボランティアを始めました。子ども達と一緒に公園に行ったり、夏にはキャンプ、冬にはスキーキャンプにも行きました。

そして、手足の不自由な子どものキャンプに参加した際、初めて車椅子に乗った脳性麻痺の子ども達に出会いました。正直ビックリしたのを今でも覚えています。

中でも特に衝撃的だったのが、一介助者としてご一緒することになったM君との出会いでした。東京教育大桐が丘養護学校(当時)の高等部2年生だった彼は、出しにくい声でしたが、しっかりと自分の考えを語ってくれたのです。キャンプファイヤーの時、WHOの健康の定義を持ち出しながら自分の心の健全さをアピールしてくれた時には感動しました。

4泊5日のキャンプが終わる時、皆同じように見えていた彼らが一人ひとり違うんだ、彼らと一緒に生きていきたい、と心から感じました。このM君との出会いが私の人生を変えたのです。

そして、キャンプスタッフとして参加していた医師の話から理学療法士という職業を知り、大学卒業後に養成校に入学、理学療法士となりました。

脳性麻痺の子ども達との出会いが、松野さんを理学療法士という職業へと導いたのですね。理学療法士となってからは、どのような活動をされたのでしょうか。

松野さん:障がいのある子どもへの支援をしたいという思いから理学療法士になったので、最初から子どもの分野に行こうと決めていました。実家の近くに肢体不自由児施設である愛知県立第二青い鳥学園があり、就職が叶いました。

当時は脳性麻痺等中枢神経疾患に対する治療法として、神経生理学的アプローチが盛んにおこなわれていた頃で、私もそれを学び臨床に取り入れていました。また、在宅で青い鳥学園に通う通園部の担当、愛知県が実施していた地域の通園施設等への巡回療育にも参加し、家庭で家族と共に、地域で暮らす障がいのある子どもへの支援の大切さを学ばせていただきました。

当時はまだ入所型福祉の全盛期で、夜勤をしていると保護者の方から施設に入居している子どもに電話がかかってきました。すると、電話口で泣きながら「お家に帰りたい」と訴える子どもがたくさんいました。「障がいのある子も子どもなんだ」「その子も含め家族で地域で暮らせるシステムを作りたい」と強く思うようになってきました。

そんな思いが大きくなった38歳の頃、青い鳥学園の圏域であった豊田市で総合通園センターを作る構想が持ち上がりました。理念は、圏域に住む全ての障がいのある子ども達の在宅での生活を保健・医療・福祉・教育が連携して支援することです。幸運にもその企画から関わらせてもらうこととなりました。

続いて、豊田市こども発達センターでのご経験を教えていただけますでしょうか?

松野さん:豊田市こども発達センターでは、建物の設計、建設、組織作り、人集め、具体的な運営、すべてに携わることができました。

理学療法士としての仕事しかしてこなかった私にとって、新規の施設を企画し、具体的に計画し、予算を取り、建物を設計・施工し、人を集め、国県と協議し進めていくことは大変なことでした。しかし、私も含め行政職の人も理想に燃え、施設建設に向けて頑張りました。

大変さよりも理想に燃える心が勝っていた数年間でした。

こういったご経験が、現在の活動に繋がっているのですね。

松野さん:理学療法士としての視点だけで障がいのある子どもをとらえるのでなく、より広い視点から地域で暮らす障がいのある子どもとそのご家族のことがよく理解できるようになったと思っています。

これからも子どもとご家族に寄り添いながら、地域での暮らしを支援していきたいです。

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