【第3回】東日本大震災から10年〜理学療法士として今伝えたいこと:支援活動を振り返って No.1 小林優人さん

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3月は東日本大震災を振り返って、理学療法士が読者のみなさまに今伝えたいことを取り上げています。

今回から2週連続で、“支援活動を振り返って”をテーマに、震災時に理学療法士として被災地に向かい活動された方々を2名ずつご紹介していきます。今回は、現在も東北の被災地への支援活動を続けている理学療法士(小林優人さん、小田智樹さん)にお話を伺いました。こちらの記事では小林優人さんの体験談をご紹介します。

小田智樹さんの記事はこちら

PROFILE

小林 優人さん(こばやし ゆうと)

小林 優人さん(こばやし ゆうと

■お住まいの都道府県:福島県
■現在のお仕事:社会福祉法人 啓和会 勤務
■支援活動のおもな期間と地域
 2011年3月11日(震災直後):宮城県仙台市太白区長町
 2011年3月11日(夕方):宮城県仙台市若林区荒町
 2011年4~8月:宮城県仙台市若林区荒浜地区

被災者だから伝えられることがある。明日は我が身、助け合いの心を忘れずに

東日本大震災発生時、小林さんはどのような状況にいらっしゃいましたか。

小林さん:当時、私は仙台市内にある理学療法士養成学校の1年生でした。宮城県の自宅アパートで震度6強の地震に襲われました。家財はすべて破損、玄関扉をやっとの思いで開けて脱出したのを覚えています。幸い自分が住んでいた場所は津波が到達しませんでした。

小林さんも被災者だったのですね…。ご自身も大変な状況で、東日本大震災のボランティア参加を決意したのはなぜですか。

小林さん:ボランティアに参加したというよりは、とにかく目の前で起きたことを理解できないまま、生きるために周りの人たちと協力し合ったという感覚でした。無我夢中で活動したという感じです。

震災直後、近くのデパートの立体駐車場や家屋が倒壊し、新幹線は普段止まることのない場所で止まり、交通事故が至る所で発生していました。ライフラインはすべて止まり、携帯電話もつながらず、何がどうなっているのか理解できませんでした。

近くのスーパーに人が集まってきており、店員の方々や住人のみなさんと協力して最寄りの学校に開設された避難所へ避難誘導をおこないました。小さい子どもや高齢者を優先に、スーパーと避難所の間を車でピストン輸送したんです。

そして、震災から1週間経ったころに、もしかして自分は被災したのか、と感じ始めました。避難所の子どもたちや高齢者に優先的に支援が行き届くように、若く体力のあった自分たちはアパートに戻り、数日間は家にあったレトルトカレーやふりかけを食べて過ごしました。数日後、温かいお弁当を食べることができたときの味とその情景は一生忘れることができません。

2011年3月11日に小林さんが撮影した風景

当たり前のことさえできない壮絶な日々が続いていたんですね。小林さんが当時おこなった活動や、印象に残っていることを教えてください。

小林さん:前述のとおり、私はまだ理学療法士養成学校の1年生で、医療従事者としての知識も少なく、悔しい思いを感じながらもできることをやったという感じでした。ただ、支援をおこなう中で、重いものを持ち上げる際の身体の使い方や動けない方の介助方法、車いすの操作・移乗方法の案内など、理学療法士養成学校で学んでいたことが役に立ったと思います。

避難所では、すし詰め状態の中、一人では身動きの取れない高齢者の方をトイレに案内するなどの活動をしました。余震があるたびに、恐怖がこみ上げて、悲鳴が上がっていたことが記憶に残っています。

また、1~2週間後にはアパートから数キロ離れた、津波被害に見舞われた海沿いの町で瓦礫撤去のボランティアをしました。行方不明者の捜索もおこない、ここでは言えないような凄惨な現場もありました。つぶれてしまった車には、捜索済みの×印がスプレーで書かれていました。現場の瓦礫やごみ、ヘドロなど、あの何ともいえない異臭は今でも忘れられません。

外壁に張られた新聞や支援物資の配給先、安否確認、行方不明者を探す張り紙など。連絡手段がなかったため、地域ではこのようにやりとりをしていた

想像を絶するお話に胸が痛みます。介助やがれき撤去などのボランティアを通して、小林さんの活動や心境にどのような変化がありましたか。

小林さん:やはり、平時から緊急事態や災害への備えがいかに大切かを思い知ることができました。個人的には、DMAT(災害派遣医療チーム)の活動にも興味を持つようになりました。

私は現在、福島県の社会福祉法人の職員として働いていますが、スタッフへの周知として、緊急時の救急隊とのやり取りや応急処置の方法、避難経路の把握、介護度別・身体機能別の利用者の避難誘導確認などをおこなっています。

また、災害対応・避難マニュアルの作成にも携わりました。福島県内にある本会の30の事業所に、それぞれ災害時の避難マニュアルを作成し配布しました。

現在も福島県で、災害への備えを意識されながらお仕事をされているのですね。具体的な内容をお聞かせいただけますか。

小林さん:事業所に配布した避難マニュアルは、高齢者施設・保育園・障がい者施設別に、それぞれ火災時・風害時・水害時の避難経路を明記しました。例えば、車両が使えなくなった場合のルート、水害時には河川の近くや橋を渡らないルート、水害想定区域を避けるルートなど、さまざまな状況を想定し、避難経路を変えています。

また、先日は本会の特別養護老人ホームで、夜間水害による施設浸水時を想定し、階段を使用した垂直避難訓練を施設職員、市役所支所の職員、市の消防署の方々と実施しました。

消防の方からは「要救助者の早期把握のために、フロアごと、ユニットごとの入居者、利用者の名簿、出勤スタッフがわかるように準備をして、消防にすぐ連絡できるようにしておいてください」とアドバイスをいただきました。

避難手段は自力歩行か車いすかなど移動形態別・介助量別に、優先順位、1人に対する介助人数、介助方法などを細かく確認しながらおこないました。実際に介助するとこんなにも重さを感じるのか、平地だけでなく階段昇降になるとこんなに大変なのかと、さまざまなことを体感することができました。

さらに、介助される側を体験することで、自分でコントロールのできない恐怖感や、体勢が崩れることから来る身体の違和感や痛みを理解できました。介助する側、される側での実際の体験が、有事の際の不安軽減につながるのではないかと考えています。

勤務先の特別養護老人ホームでおこなった避難訓練の様子

小林さん:そのほか、福島県いわき市や宮城県気仙沼市、南三陸町の看護師、理学療法士の友人たちと、被災地の現状・復興状況などについて、定期的に情報交換をおこなっています。

避難所でのエコノミー症候群予防体操や健康管理はどのようなものがよいか、地域のみなさんへわかりやすく伝えるにはどうすればよいかなど、みんなでやりとりをしながら考えています。

自らも震災を経験された小林さんの言葉には重みがあります。今、当時のご自身の活動を振り返ってどのように感じていますか。

小林さん:自分自身も友人や知人を震災で亡くしました。自分より凄惨な現場にいた方々は数知れません。悲しいことですが、火事場泥棒やここでは言えないようなこともありました。

自分の周りでは食べ物を手に入れることができた人が他の困っている人に分けたり、料理店の人が無料で炊き出しをしたり、ガスが使える家の人がお風呂を提供したり、本当にみんながみんな助け合って生き抜いていました。当時ほど「生きる・死ぬ」ということを生で感じたことはありません。

東日本大震災は誰も想像していなかった大変な困難でしたが、震災から10年後、今度は新型コロナウイルスという世界規模の脅威にさらされています。そして、コロナが落ち着いた後もさまざまな困難がやってくると思います。

相田みつをさんの言葉で「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」というものがあります。今後困難に立ち向かうときも、周りの人たちと手を取り合い、また乗り越えていきたいと思っています。

今、リガクラボの読者へ伝えたいことはなんですか。

小林さん:「明日は我が身」という気持ちを持って、非常事態への備えをしていただきたいです。万が一の準備をするかしないかが有事の際には生死に関わります。そして、悲劇的な災害を「忘れない」「教訓を生かす」ことが、災害で亡くなった方への一番の弔いだと思います。

また、震災当時は私自身福島県出身ということもあり、「放射能」などと心ない言葉も受けました。皆がさまざまなストレスを抱える中、悲しい状況にある方を追い込むような誹謗中傷は絶対にやめていただきたいと思っています。

小林さん、インタビューにご協力いただきありがとうございました。

次へ:おわりに
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