【前編】東日本大震災から13年。利用者さんにとって何が一番の幸せか考え続けたい~理学療法士・石田英恵さんインタビュー~

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東北地方を中心に甚大な被害を及ぼした、東日本大震災。2024年3月11日で、発生から13年が経ちました。

リガクラボでは2021年3月に「【特集】東日本大震災から10年~理学療法士として今伝えたいこと~」で、被災地での支援活動をおこなってきた理学療法士の皆さんにお話を伺い、体験談等をご紹介しました。

今回は、岩手県にある「宮古・山田訪問看護ステーションゆずる」の理学療法士・石田英恵さんにインタビューしました。石田さんは、東日本大震災でボランティアを経験した後、岩手県宮古市の訪問リハビリステーションの職員として勤務し、一度は東北を離れたものの、再び岩手県宮古市へ戻られています。理学療法士として東北に寄り添う石田さんの思いや、理学療法士としてできる被災地に必要な支援についてなどを伺いました。

なお、今年の1月1日には、令和6年能登半島地震が発生しました。この地震により、被災された方々に心よりお見舞い申し上げるとともに、亡くなられた方やそのご家族の皆様に心よりお悔やみを申し上げます。

(本記事には、震災時の写真等、地震・津波の描写、表現がありますことをお断り申し上げます)

PROFILE

石田 英恵さん(いしだ はなえ)

石田 英恵さん(いしだ はなえ

■現在のお仕事
一般財団法人 訪問リハビリテーション振興財団 
宮古・山田訪問看護ステーションゆずる 統括管理者、理学療法士
■経歴
2006年4月 医療法人全国社会保険協会連合会 三島社会保険病院 入職
2013年4月 一般財団法人訪問リハビリテーション振興財団 宮古・山田訪問リハビリステーションゆずる 入職
2019年6月 公益財団法人日本理学療法士協会 入職
2023年7月 宮古・山田訪問看護ステーションゆずる 入職、現在に至る
■支援活動のおもな期間と地域
2011年5月21~28日 宮城県気仙沼市
2011年8月8~10日 宮城県気仙沼市

阪神淡路大震災で感じた無力感に突き動かされ、東日本大震災直後に宮城県気仙沼市へ

石田さんは2011年5月と8月の2回、宮城県気仙沼市での支援活動に参加されたと伺いました。東日本大震災の後、なぜ気仙沼市に行こうと思われたのでしょうか?

石田さん:兵庫県西宮市に住んでいた中学3年生の時に、阪神淡路大震災を経験したことが大きいです。当時、自宅は壁にちょっとひびが入った程度の一部損壊で、家族も無事だったのですが、周囲は本当にめちゃくちゃな状態でした。電気は比較的早く復旧しましたが、水やガスが長い間使えず、普段当たり前にあるものが実は当たり前じゃないんだなということを痛感しました。

また、同じ部活の同級生が犠牲になったのですが、倒壊した建物の中にいるとわかっていながら、助けられなかったことに大きな無力感を感じていました。当時感じた無力感がずっと心に残っていて、東日本大震災の報道を見た直後から居ても立っても居られなくなりました。ちょうど日本理学療法士協会がボランティアの募集をしていることを知って、すぐに応募したんです。当時の職場の方たちも私の体験を知っていたので、ボランティアへの参加を後押ししてくれました。そこで2011年5月21日から28日の8日間と、8月8日から10日の3日間で計2回、気仙沼市でのボランティア活動に参加することにしました。

東日本大震災は津波の被害が甚大で、気仙沼では港に近い道に入ると、壊滅的な光景が目に飛び込んできた(2011年5月:石田英恵さん撮影)

ご自身が被災した経験から、居ても立っても居られないお気持ちで気仙沼市に向かわれたのですね。現地では具体的にどのような活動をされたのですか?

石田さん:最初に行った5月は、体育館や学校の教室などが1次避難所として利用されていました。まず各避難所の代表の方にご挨拶してから、常駐している保健師や看護師の方から情報収集して支援対象者を確認しました。そして避難所において、日常生活での支援や、介護サービスを利用できなくなった方のADL(日常生活動作)を維持させるための支援をしました。必要に応じて、動作方法のアドバイス、福祉用具の提供や使用方法のアドバイスなどをおこないました。

8月には、2次避難所として指定されたホテルで支援活動をしました。避難している方に声をかけて集まってもらい、朝食バイキングに使うような広い場所で「お茶っこ会」をおこないました。いろいろお話ししながら、ちょっと体を動かしたり、血圧測定したり、健康状態の自己管理につながるように関わりました。

住み慣れた地域でその人らしく生活できるような支援を。「ゆずる」に入職した思い

2016年頃の「ゆずる」のスタッフの皆さん。前列中央が石田さん

孤立しがちな避難所の生活で、集まってお話ができる「お茶っこ会」は、とても良いイベントですね。その後、2013年岩手県宮古市に「宮古・山田訪問リハビリステーションゆずる(以下、「ゆずる」)」が開所されたのを機にスタッフとして勤務することになったそうですが、どのような思いがあったのでしょうか?

石田さん:学生時代に訪問リハビリテーションを見学した時から、いつかはこの仕事がしたいと考えていました。2013年当時は、急性期病院での入院・外来患者への理学療法業務に従事していましたが、病院でいかに良い理学療法を提供しても、患者さんの退院後の生活に活かされなければ意味がないなと思っていました。

2011年の気仙沼市でのボランティア活動時に、「地域リハビリテーション」という考え方を地元の理学療法士の方に教えていただきました。もっと勉強したい気持ちと、継続的な支援をしたいという気持ちを抱いていた時期に「ゆずる」が開所されると聞き、宮古市へ行くことにしたんです。

2013年に「ゆずる」に入職された当時、東日本大震災からは2年が経過していましたが、地元の方たちの生活や、地域の復興状況はいかがでしたか? また、始まったばかりの「ゆずる」で大変なことはありましたか?

石田さん:宮古市に着いた時は、意外と復興しているんだなと思いました。しかし、訪問エリアである山田町は、明らかに以前は家があったであろう場所なのに家が見あたらない土地があり、道路の整備もあまり進んでいませんでした。

ガードレールがない場所もあり、運転が苦手な職員は、ドキドキしながら訪問に行くような状況でしたね。地図で「ここです」と示された場所に行ってみたら、地図に沿って向かったはずなのにまったくたどり着けなかったということもありました。

「ゆずる」に入職した時、県外から来た人間が地域に溶け込むのは時間がかかるだろうなと覚悟していました。しかしスタッフのみんなが丁寧に関わっていくことで、だんだん事業者として地域に溶け込んでいけたのかなと思います。苦労という点では、事情があって入職してわずか3ヶ月で私が「ゆずる」の管理者になったことが大変でした。

その後、石田さんは一度岩手を離れ、東京の日本理学療法士協会でのお仕事を経て、2023年7月に約4年ぶりに「ゆずる」に戻られています。再び戻ると決められたのはどのような経緯があったのでしょうか? 離れていたからこそ見えたことなどがあれば、それもお聞かせください。

石田さん:日本理学療法士協会の仕事で厚生労働省へ報酬改定に関する審議会を傍聴しに行った際、訪問看護ステーションからの理学療法士等の訪問について、報酬などの面でかなり厳しい状況であることを目の当たりにしたことです。

岩手県沿岸は在宅におけるリハビリテーション資源が不足している地域です。そのため、「ゆずる」がリハビリテーションを提供することで資源を補えます。一方、「ゆずる」は当初「訪問リハビリステーション」として設置された事業所を「訪問看護ステーション」へと移行して運営しています。リハビリテーションの依頼が看護よりも多い状況にあり、介護報酬の改定による影響等を受けて今後経営が厳しくなると予測できました。事業所の経営や運営が大変だと予想できる中、見て見ぬふりは自分が後悔すると思ったので、戻ることにしました。

被災地支援というよりは、医療・介護資源が少ない地域であっても、住み慣れた場所でどうしたらその人らしく生活できるような支援をできるのかという視点を持ち、少しでもより良く生きるための選択肢を増やせる支援をしたいと考えています。

そのためにも地域の様々な資源をつなげる橋渡し役を事業所としておこなっていきたいという思いがあります。

地域での生活を支援したいという思いが、石田さんの活動の基盤にあるのですね。2013年と2023年の「ゆずる」を知る石田さんですが、以前との違いや新たな気づきなどはありますか?

石田さん:2013年当時は仮設住宅が多くて、道路も整備されていませんでしたが、2023年には、かさ上げされた場所に建てられた災害公営住宅などへの訪問が多くなりました。道路も専用自動車道が複数整備されて、三陸鉄道も走っているというのは大きな変化でしたね。

地元の方たちとの関係作りを積極的に進めてきたことで、この10年で「ゆずる」は地域から頼りにされる事業所として存在できているかなと感じています。以前は「ゆずる」が、特区での「訪問リハビリステーション」だったため、制度上、介護保険のみの対応に限られていましたが、「訪問看護ステーション」に移行した現在は、医療保険で難病の方のリハビリテーションをおこなう機会も増えてきました。最近では、小児から高齢者まで幅広い年代の方、いろいろな身体の状態の利用者が増えてきました。

インタビュー中の石田さん。ご自身のお考えを私たちにもわかりやすく、丁寧に話してくださったのが印象的だった
次へ:おわりに
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