【第4回】東日本大震災から10年〜理学療法士として今伝えたいこと:支援活動を振り返って No.3 安倍恭子さん

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3月は東日本大震災を振り返って、理学療法士が読者のみなさまに今伝えたいことを取り上げています。

前回に引き続き、“支援活動を振り返って”をテーマに、震災時に理学療法士として被災地に向かい活動された方々をご紹介します。今回は、東北での支援経験を活かし、現在は東北以外の場所で災害に関する支援活動を続けている2名の理学療法士(安倍恭子さん、吉岡政子さん)にお話を伺いました。こちらの記事では安倍恭子さんの体験談をご紹介します。

吉岡政子さんの記事はこちら

PROFILE

安倍 恭子さん(あべ きょうこ)

安倍 恭子さん(あべ きょうこ

■お住まいの都道府県: 山形県
■現在のお仕事:済生会山形済生病院勤務 回復期リハビリテーション病棟担当
■支援活動のおもな期間と地域
 2011年5月:宮城県気仙沼市
 2011年11月:宮城県石巻市
 2011年3~4月:山形県山形市

「いつか恩返しすっからな。」避難者の方からもらった言葉を忘れずに前進

東日本大震災発生時、安倍さんはどのような状況にいらっしゃいましたか。

安倍さん:震災発生時は、現在の職場でもある山形県の病院のリハビリテーション室で業務をおこなっていました。地響きが聞こえ、音が近づいてきたと思うと、その後経験したことのない激しい揺れが長時間続き、これはただ事ではないと感じました。

山形も広域で停電が発生しましたが、病院は自家発電があったので、病室で患者さんがご覧になっていたテレビに次々と映し出される被害状況を見て衝撃を受けました。

そんな中、県内にDMAT(Disaster Medical Assistance Team:災害派遣医療チーム)の出動要請があり、当院のDMATも当日に被災地へ入り活動を開始しました。

自施設も被災している中でDMATを被災地へ派遣された病院の対応に頭が下がります。安倍さんご自身も5月以降、東日本大震災の支援活動に参加されました。どのような思いで参加されましたか。

安倍さん:同じ東北に暮らす方たちが大変な思いをしているので、少しでも力になれればと思っていました。

実際に支援活動に参加できたのは、その機会を仕事としていただくことができたというのが大きいです。さらに、職場や家族の理解も参加を後押ししてくれました。私は両親と当時小学生だった一人娘との4人家族ですが、家族の協力があってこその活動でした。

職場のみなさんやご家族など周囲の理解と協力あっての活動だったのですね。安倍さんがおこなった支援活動の内容について詳しく教えてください。

安倍さん:最初の活動は県内の避難所支援でした。山形県は発災後に一次避難所を開設し、近隣の県から最大で3,500人以上の被災者の受け入れをおこないました。

また、山形県理学療法士会(※)は同県の作業療法士会、言語聴覚士会と合同でリハビリテーション支援をおこなうこととなり、私は山形県理学療法士会の災害対策本部の一員として参加しました。当時は災害支援に対しての組織やシステムがなく、他の組織や団体と連絡を取りながらの手探り状態でした。実際に避難所支援を開始できたのは4月2日、発災から3週間が経過していました。

その後、県内の一次避難所は6月下旬に閉鎖となり、支援活動も終了。8月から翌年1月までは、宮城県理学療法士会のコーディネートのもと、宮城県石巻市での活動に参加し、こちらでは主に仮設住宅での支援活動をおこないました。

(※)編集部注:都道府県ごとに理学療法士の学術・職能団体(都道府県理学療法士会)が設置されており、日本理学療法士協会と連携して活動しています。

10年前、山形県内に開設された避難所で支援活動を始めた際の写真。被災地の避難所に比べるとスペースは広いものの、プライベートを守ることへの対策はされていなかった

未曽有の災害で、支援も試行錯誤されたことと思います。山形県理学療法士会の活動以外にも何か参加されたのですか。

安倍さん:山形大学医学部附属病院の高木理彰先生が気仙沼災害対策本部からの要請に応えて編成された、山形大学医学部附属病院・みゆき会病院・済生会山形済生病院の3施設合同リハビリテーション支援チームに参加させていただく機会がありました。発災から2ヶ月が過ぎた、2011年5月中旬ごろです。

その頃、地震と津波、そして火災に見舞われた宮城県気仙沼には、大量の瓦礫の中をようやく車両が通れるほどの道ができていました。しかし、橋が無くなっていたり、満潮時の冠水で道が寸断されたりしている箇所もまだまだ数多くありました。

たくさんの方々が、一次避難所の非常に限られたスペースでプライベートもない不自由な避難生活を送られていました。みなさんの姿を見て、「地獄のような災害から助かった命を、避難生活で害するようなことになって欲しくない」と強く思ったのを覚えています。

震災から日が経っても過酷な現状を目の当たりにしたのですね。現場を訪れて印象に残った出来事はありますか。

安倍さん:福島から山形に避難していた高齢の女性のところにお邪魔したときに、「山形の人たちには本当にお世話になって…。何代後になっかわがらねけど、恩返しすっからな」と言っていただきました。とても日本人らしいというか、東北人らしいというか…。その言葉が心に残っています。

そのとき自分がどうお返事したのかは思えていませんが、「もしかしたら、何代も前にこの方たちにお世話になったことがあって、私は今、恩返しをする機会をもらっているのかもしれない」と、なぜかとても腑に落ちた感じがしたんです。

助け合いやつながりを感じる、素敵なエピソードです。支援活動の中で、理学療法士の資格(または学んだ内容)が役に立ったと感じるのはどんな点でしょうか。

安倍さん:一次避難所での支援活動は、深部静脈血栓症と生活不活発病に対するスクリーニング(状況を把握するための検査)や啓発が中心でしたが、個々が抱える問題点の把握や、生活環境の調整のお手伝い、他職種の方と協働することなど、普段の業務でおこなっていることが役に立ったと感じています。

東日本大震災での支援活動を通して、ご自身の活動や心境にどのような変化がありましたか。

安倍さん:「本当にたくさんの方が辛い中で頑張っている。私は今まで何をしてたんだろう?」という思いが強くなりました。それまでの自分は“与えられた仕事をするだけの理学療法士”だったのではと感じたんです。

支援活動に参加した当時、私はすでに30代半ばを過ぎていましたし、子育て中でもありました。ですが、改めて勉強をするために、県外の研修会や学会にも積極的に参加するようになり、脳卒中認定理学療法士も取得しました。この10年間で同じ分野で活躍されているたくさんの方々とつながることができたと感じています。

現在、回復期リハビリテーション病棟を一緒に担当している理学療法士の仲間たち。一生懸命でとても勉強熱心なメンバーで、安倍さんも信頼を寄せている

子育てをしながらお仕事で新たな挑戦をされた安倍さんに、勇気づけられる読者の方も多いと思います。現在はどのような形で災害時の支援活動に参加されているのでしょうか。

安倍さん:現在、ほとんどの都道府県で地域JRAT(Japan Disaster Rehabilitation Assistance Team)が組織されていますが、山形県でも2017年に「やまがたJRAT」が発足しており、その活動に参加させていただいています。2019年10月の台風19号(令和元年東日本台風)の際には、福島県伊達市の避難所支援をおこないました。

災害支援については、個々の状況によって積極的に動くことができない場合もあると思います。しかし、私自身、動いてみたからこそ得ることのできた経験や、気持ちの変化もありました。何とか立ち止まらずにここまで来られたのは、被災地の支援活動でお会いした方々の存在があったからこそだと感じています。

自分自身も、動き出したいのになかなか踏み出せない人がいたときに、力になれるような存在にいつかなりたいと思っています。

最後に、リガクラボの読者へメッセージをお願いします。

安倍さん:災害時は、まずは命を守るための行動を取ってください。そして、もしも避難生活が必要になってしまったら、せっかく守った“命の健康”を守ることを考えてください。また、その支援をさせていただくために、JRATというチームが活動していることを知っておいていただければと思います。

安倍さん、インタビューにご協力いただきありがとうございました。

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