【第4回】東日本大震災から10年〜理学療法士として今伝えたいこと:支援活動を振り返って No.4 吉岡政子さん
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3月は東日本大震災を振り返って、理学療法士が読者のみなさまに今伝えたいことを取り上げています。
前回に引き続き、“支援活動を振り返って”をテーマに、震災時に理学療法士として被災地に向かい活動された方々をご紹介します。今回は、東北での支援経験を活かし、現在は東北以外の場所で災害に関する支援活動を続けている2名の理学療法士(安倍恭子さん、吉岡政子さん)にお話を伺いました。こちらの記事では吉岡政子さんさんの体験談をご紹介します。
【特集】東日本大震災から10年~理学療法士として今伝えたいこと
PROFILE
吉岡 政子さん(よしおか まさこ)
■お住まいの都道府県:広島県
■現在のお仕事: 医療法人ハートフル アマノリハビリテーション病院勤務 リハビリテーション部所属
■支援活動のおもな期間と地域
2011年5月:宮城県多賀城市、塩竈市、石巻市
2012年5月:宮城県南三陸町
2013年4月~2014年4月:福島県南相馬市
「微力ではあるが、無力ではない。」現在はJRATに参加して被災地支援を継続中
吉岡さんは2011年から2014年にかけて東日本大震災の支援活動に参加されています。約3年にも及ぶ活動ですが、参加に至った思いや経緯を教えてください。
吉岡さん:発災数日後から、少しでも何かできることをしたいと思っていました。そんなとき、当時勤務していた病院が全日本民主医療機関連合会に加盟する事業所であったため、全国の事業所に対し支援者の募集が開始されたんです。自分に何ができるのか…という不安もありましたが、支援者の活動状況をレポートで知り、思い切って手を挙げました。
2回目の訪問は、前回のボランティアから約1年後でした。テレビでさまざまな特番を見ながら、訪れたときの感情を忘れかけている自分にはっとしたんです。そして、「今の被災地を知って欲しい」と短期間でも受け入れている団体があることを知り、再び東北へと向かいました。
その後、数日間では何もできない、もっと長い期間で何かできないか、という思いが強くなり、一般財団法人 訪問リハビリテーション振興財団の採用募集に応募するに至りました。そして選考を経て採用され、福島県南相馬市の「浜通り訪問リハビリステーション」で約1年間勤務しました。
長期的に支援をおこなえる形を選んだのですね。被災地の当時の状況や吉岡さんの実際の支援活動の内容について、詳しく教えてください。
吉岡さん:2011年5月に初めて宮城県の被災地を訪れたとき、発災から2ヶ月も経過しているのに…と言葉を失ったのを覚えています。沿岸部には自衛隊の車が並び、津波の威力で押し潰された建物や車が山となり、直視し難い状況でした。
その時の支援活動では、戸別訪問にて現状確認をし、集まっている支援物資を現地へ運搬・配布する、避難所での環境調整をするなどといった活動をおこないました。
2012年に再び訪れた際は、老人保健施設とデイサービスに訪問し、レクリエーションをしたり、入所者や利用者の方とお話をするなどさせていただきました。当時、被災者の方々は、被災者同士で震災の話をあまりされないと聞きました。
お互い被害者であり、話すことで相手に辛い思いをさせてしまうのではないか…という思いがあるためだそうです。しかし、私のような県外からの訪問者には、当時の話を少しずつ聞かせてくださいました。このとき多く聞かれたのは、「(震災のことを)忘れないで欲しい」という言葉でした。
2013年からは、浜通り訪問リハビリステーションに勤務し、福島県で生活をしました。福島県は津波被害に加え、原発被害を受けた地域です。建物があるのに、人が誰もいない地域も広がっていました。
当時の福島では、震災前には山菜採りや野菜作りなど日常的におこなっていたことができなくなり、心身機能が低下し、要介護認定を受けた方が急増していました。
訪問先は自宅に次いで、仮設住宅や借り上げ住宅も多かったです。自宅に住んでいても、子どもたちやその家族は放射能の影響を懸念して避難しており、原発事故以後、高齢者のみの世帯に変化しているご家族も多くみられました。
そのような方々に対し、以前の日常を提供できない中で何を目標にしてリハビリをおこなっていくか、葛藤の日々でした。
2度のボランティア活動を経て、被災地での長期的な支援を決心されたのですね。宮城と福島で支援活動をする中で特に印象に残ったことはありますか。
吉岡さん:初めて現地を訪れた際、「ありがとう」や「私も他の地域で何かあれば、お礼に駆けつけます」など、感謝の言葉を多くいただきました。被災者のみなさんの心労には計り知れないものがある中で、このような言葉をかけていただき、心が痛みました。
また、津波で家や友人を失った高齢女性とお話した際、「海があるから、若い人たちがまた漁をして復興できる。この町は海のあるいい町よ」とおっしゃっていて、大変驚き、その言葉が胸に突き刺さりました。生まれ育った場所を想う気持ちの強さや重み、故郷の大切さを痛感しました。
住民のみなさんの故郷への思いが伝わってきます。東日本大震災での支援活動を通して、理学療法士の資格(または学んだ内容)のどのような点が役立ったと思いますか。
吉岡さん:卓越したスキルが必要なのではなく、理学療法の基本が活かされました。特に予防に関する知識は重要だと思います。
現場では、環境が整っていない中で、
- 環境を評価し、現状からどのような問題が生じる可能性があるのかを予測し、そのときにできる対策をおこなう
- チームで協力して活動する
- 他者(被災者、他支援者)を尊重する
ということが支援活動には求められると思います。
私自身は、改めて支援活動について学びたいと思い、広島に戻ってからJIMTEF(公益財団法人 国際医療技術財団)の研修に参加したことで、他団体への理解が深まったと感じています。
支援活動では、状況の把握や臨機応変に行動することや協力、思いやりなど、基本的なことが大事なのですね。改めて支援活動を学ばれたとのことですが、東日本大震災での経験を通して、ご自身の活動や心境にどのような変化がありましたか。
吉岡さん:その時々によって“必要なこと”は違い、それを見極めることや押し付けないことが大切だということ、そしてまずは被災者の方々に寄り添うことが重要だということを感じました。
しかし、しばらくすると今度は「自分は何もできていない」という感情が強くなり、無力感を感じるようになりました。そんなとき、「微力ではあるが、無力ではない」という言葉を知人が言ってくれました。今もこの言葉が根底にあり、自分にできることがあればやり続けたいと思っています。
実際に広島に戻って今の職場で働き始め、これまでの活動がきっかけとなり、JRAT(Japan Disaster Rehabilitation Assistance Team:日本災害リハビリテーション支援協会)の活動に関わらせていただくようになりました。また、当時の経験を伝えさせていただく機会があればお受けし、発信することを継続しています。
JRATではどのような活動をされているのでしょうか。
吉岡さん:私は広島JRAT(広島災害リハビリテーション推進協議会)の会員として、2016年の熊本地震では現地避難所支援、2018年の西日本豪雨では県庁内対策本部での調整を中心に支援活動を実施しました。現在も広島JRAT役員として活動を継続しています。
熊本では数カ所の避難所を回りながら、出入り口やトイレ周辺、居住エリアの環境調整などをおこないました。
西日本豪雨の際は、行政・避難所等との連絡調整、各避難所の情報収集・派遣調整、各種問い合わせへの対応が主でした。受け入れる側としての活動は初めてであり、何もかもが模索しながらの活動で迷走し、怒濤の日々であったと記憶しています。
しかし、これまでの支援経験が少なからず役立ったことは実感しています。また、以降さまざまなつながりができ始めており、今後の備えとなることを期待しています。
東日本大震災での経験が、熊本地震や西日本豪雨など別の被災地支援に活きているんですね。震災から10年が経過した今、当時のご自身の活動を振り返ってどのように感じていますか。
吉岡さん:振り返ってみても、支援活動として実際に何ができたのか未だにわかりません。しかし、広島県理学療法士会や他県理学療法士会、前勤務先や現勤務先、広島県看護協会広島西支部、市民グループ主催の体験会等、さまざまな場所で被災地の状況や活動内容について報告をおこないました。
また、福島滞在時には福島の現状をまとめ、親交のあった広島県の理学療法士の方々に毎月送っていました。それが当時、広島県理学療法士会副会長であった久保先生の目に留まり、ご厚意で広島県理学療法士会のホームページに掲載していただくようになり、会員向けに毎月発信もしていました。
そのような活動に対し、広島県理学療法士会からは社会功労賞として表彰もいただくことができました。報告会や通信の発行を通じて、周りの人たちに現地の状況や支援活動について知ってもらうことは少なからずできたのではないかと思っています。
吉岡さん:また、福島滞在時には、前職の同僚やそのご家族、他職場のお世話になっていた先輩理学療法士や友人など、9名が現地を訪れてくれました。訪問リハビリへ同行してくれたり、福島県内・宮城県内の復興の様子を見て回ったり、純粋に観光をして美味しいものを食べたりもしました。
さらに、広島に戻ってからも私の思いに共感を示してくれた理学療法士11名で、2015年に宮城県と福島県を訪れることができました(写真参照)。
訪問時には、津波被害が大きかった地域の復興の様子を見て回り、NPO法人に依頼して福島第一原発付近の帰還困難区域の現状を視察しました。また、数名は訪問リハビリにも同行し、その後訪問リハビリステーションスタッフや近隣病院のリハビリスタッフとの交流会もおこないました。そこには広島県から移住し、宮古・山田訪問リハビリステーションに勤務する理学療法士も合流して、みんなでいろいろな話をすることができました。
当時、支援をしたいという思いはありながらも、さまざまな状況で実際に現地に足を運ぶことができなかった人は多いと思います。ですが、被災地の状況・復興の状況を実際に見るきっかけを作れたことにより、震災から数年後であろうと、当時支援に行けなかった方にも、東日本大震災について感じ、考える機会を提供できたのではないかと感じています。
当時の活動を発信し、支援の輪も広がっていったのですね。最後に、リガクラボの読者へメッセージをお願いします。
吉岡さん:災害は必ずまた起こります。自分がいつ被災者になるかもわかりません。今できる備えをぜひしていただきたいと思います。被災経験がある人とない人では、防災・減災対策の実施率が大きく違うといいます。東日本大震災から10年という節目に今一度、備蓄の準備や避難場所・家族との連絡方法の確認などおこなってください。
また、もし自分が被災者ではなく支援できる立場であれば、どんな形でも一歩踏み出して欲しいと思います。きっと何かできることがあるはずです。その支援の形が、被災地に赴くことを希望する場合、必ず必要となるのが職場と家族の理解です。支援活動に参加したいという思いがある方は、ぜひ自分の思いを周囲に伝えてみてください。
吉岡さん、インタビューにご協力いただきありがとうございました。
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